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ジョシュア・ベル実験に関する一考察 ~その3

ジョシュア・ベル実験に関する一考察 ~その3

・・・・・その2からの続き

・・というわけで、この自分のブログであればいくらでも思考実験ができる場なので、ジョシュア・ベルからどんどん付帯物を剥いでみよう。

次に彼から剥ぐ付帯物は、「演奏技術」だ。

ちょっとまて、それは付帯物か?という疑問もあるでしょう。
このブログは僕のブログなのでここは(っていうか全面ずっとかもだけど)僕の私見を言わせてください。

僕は、技術というのは表現者の付帯物もしくは付帯環境、といつも考えている。

技術は確かに表現者が時間と労力を消費して勝ち得た素晴らしい要素だ。
そこにもちろん異論はないし、技術をさげすんでいるわけでも全くない。技術は何かを作り出すためにほとんど必要不可欠な最重要要素の一つだと思っている。

だけど、というか、だからこそ、技術は『道具』にとても近い存在位置、と思う。

何かを作り出そうとするとき、その工程に最適な道具を選ぶ。なければお金を出して買う。どこにもイメージする道具がなければ自分で作る。道具とはそういうもの。

何かを作り出そうとするとき、その仕上がり具合になる最適な技術で作業をする。技術がなかったり低かったりすれば、師匠や本から学んで練習して会得する。どこにもイメージする技術がなければ、これまで会得した技術を自分で工夫して新しい技術を生み出す。技術とはそういうもの。

ほら、おんなじじゃないですか?

少なくとも僕は自分の仕事をしていて、技術とはそんなものだと、いつも思っている。

或る技術を習得するのには人によってその習得する速度や習得できる・できない、の差がどうしてもある。
同じように努力している(もしくはしているように見える)のにだ。

これは、よく「才能がある」とか「センスがある」という言葉で表現される。
確かに持って生まれたものがあると思う。自分の努力だけでは何ともならないこともあると思う。

でも、それって、簡単に言うと「お金持ちに生まれる」のと同じじゃないか、と思う。

お金持ちの家に生まれるかどうかは自分ではどうにもできない。
裕福だからたくさん小さいころから色鉛筆を持てたので、ずうっと不自由せずに絵をかけた。だから絵がうまくなった。
そんなことってあると思う。道具は付帯物だから。

それと同じように、やっぱり技術も付帯物(もしくは付帯環境)。
自分で選べない環境に置かれて、その環境の中で最適な要素をチョイスして、手に入れたり作り上げたりする。

そういうものだ、と思っている。

・・ちょっと横道が長かった。元に戻ります。

ジョシュア・ベルから演奏技術という付帯物を取り去ってみよう。
順繰りに剥いでいくのがまどろっこしいので、もう一気に、彼が初めてバイオリンを弾いたときまではぎ取ってみる(乱暴すぎるが・・)。

幼少のジョシュアが小さい小さいバイオリンを初めて握って、弓を弦にあてて弾いてみる。

ギ、ギ、ギ、ギィィィ

だよね、まず間違いなく。

そこに『美しいもの』は、あるのか?

たぶん、ない、と思うのです。

じゃあ、技術や道具やその他もろもろの付帯物がどのくらいついてきたら『美しいもの』になる及第点がもらえるの?

その及第点って、絶対的な、だれでも認識できるボーダーラインなの?

そもそも、『美しいもの』になっているかどうかは別として、作り上げた表出物って、その主体と付帯物・付帯環境との明確な差ってあるの?
だって、初めての演奏はギギギ・・で、そこに技術やらなんやらの付帯物が付いて付いて付きまくって今のジョシュアベルの演奏があるんだもの。

・・・・という疑問がどんどん湧いてくる。

このStandby Recordのライターさんの文章を読んでいて、そんなことをどんどん考えてしまって、今こんな文章を書く羽目になっているわけだ。

いや、楽しんでます。はい。ものすごく楽しいです♪

でも、実は、WP紙の元記事には、今僕が言ったような内容はすべて記者がちりばめていた。もちろん表現方法は全く違うが、記者は同じようなことを考えながらこの実験の報告をしているのだ。

僕がこのWP紙の記者と同じ考えを持っている人間だ、ということが言いたいのでは全然ない。
この実験は、本来そんな内容を問題にして皆が考えざるを得ないとても深遠なるテーマを題材にしてる実験だ。と思う。

そういう意味で、とても興味深い実験だと思ったわけ。

実際、WP紙の元記事には、何人かが実際にジョシュア・ベルの演奏に反応していたことを詳しく説明している。

ジョシュア・ベルの演奏に感銘を受けたのはStandby Recordのライターさんが書いていた小さな子供だけではなく(3歳の子なので本当に感銘を受けたかどうかは不明なようだが)、他にもWP紙の記事があげている明らかなる興味を抱いた人は6人いた。
まぁ、逆に言うとたった6人、ともいえるが。

記事を読んでもらうのが一番いいのだが、時間のない方はもしよければ僕の読解力に妥協してもらって。。。

一番反応をしたのは元アマチュアバイオリン弾きの郵便局勤めの男性。彼はクラシック好きでジョシュアベルももちろん知って普段から耳にしている。
ジョシュアベルとは気づかなかったが、彼のストリートパフォーマンスを聴いてこれはただ事ではないと思ったらしい。
で、面白いのが、あまり近くに行かず遠巻きに、オフィスに遅刻限界のギリギリしばらく観ていたらしい。
近くに行くと演奏者の気を散らすと思ったから、とのこと。本当にクラシック好きなんだなぁ。

他にも、やはり小さいころバイオリンを習っていた会計関係の仕事をしている女性がオフィスから朝のコーヒーブレイクをしたときに立ち寄って帰社するまでずっと聴いてたり、
近くのカフェの店員(彼はアマチュアギタリスト)が店主の目を盗んでちょろちょろ聴きに来たり。

演奏の最後には一人だけジョシュア・ベルと見抜いたおばさんがいたようだ。ただ、この人は音楽に造詣があるわけではなく、数日前に現地の図書館のイベントでジョシュアが無料コンサートをした際に観て感動して顔を覚えていたからとのこと。

近くの靴磨きのブラジル出身の女性は、特筆するような音楽的背景は無いようだが、それなりに感動したらしい。

残りの一人は、音楽に感動したわけではなく、
「どうせお金がほしいんだったら最初からバイオリンケースにお金なんかいれない方がいいのに。その方が貧乏を演出できるじゃない」
と思ってみていたらしい。ちなみにこの女性は弁護士事務所の事務員さんだそう。

Standby Recordのライターさんはこのあたりのエピソードを割愛している。

これは、おそらく彼(もしくは彼女)が伝えたいこと、すなわち

「『美しいもの』を感ずるにはワシントンDCの官公庁に努める人たちは忙しすぎる、もしくは不感症すぎる」

というテーマにそぐわなかったからか、反応した人があまりに少なすぎて話にならないと思ったか・・・。
どんな理由かわからないが、彼の伝えたい内容には重要ではない情報なので編集カットしたのだろう。

これを僕は非難しているのではない。自分の言いたいことをいうために情報編集することは僕も含め皆が常に行っていることだ。

最初の方でも言ったが、この実験のことを検索すると結構いろいろなブログサイトが出てくる。
それぞれ、この実験に関していろいろな考察をしている。
まぁこのブログもそんなうちの一つでしかないのだが。

そうやって、いろいろな意見がでて皆が考えたがる魅力的な実験だったということなのだ。
それだけ。

ということで、こんな楽しい機会を与えてくれたStandby Recordのライターさんとそれを翻訳してくださった日本人facebookerさんにお礼を申して、このタイムラインからはもう離れようと思う。

で、次に問題にしたいのが、たった数人しかジョシュア・ベルに有機的な反応はしなかったわけだが、すごく反応した人間はほぼすべて音楽的背景がある人だった、ってことだ。

当たり前といえば当たり前なのだが、それを承知でちょっと考えてみようと思う。

『美しいもの』に感応するには、事前知識がないといけないのではないか?という仮説だ。

・・・・・・・・次号へ続く

手染メ屋
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