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ジョシュア・ベル実験に関する一考察 ~その5最終話

ジョシュア・ベル実験に関する一考察 ~その5最終話

・・・・・その4からの続き

ジョシュアベルの話なので、クラシックで話を持ってきたが、カザルスやグールドを聴いたときよりももっと数倍もしくは数十倍もしくは数百倍のメガトンパンチ(表現古いな・・)でノックダウンされたことはこれまでも何度かあった。

小学校の時に父親の本棚から盗んで目にした浅田奈美のリンゴヌードもそうだったし、
高校一年で聴いたツェッペリンの『最終楽章』もそうだったし、
ここ数年のことだけど樂美術館で触らせてもらった道入の赤樂茶碗もそうだったし、
北アルプスの山に登ってそこから見える穂高の稜線の景色は毎回そうだし、

そもそもこの仕事に足を突っ込んだのも、故前田雨城氏が染め上げた古代の色を復元した着尺18反をみてガツーーーーンとやられてしまったからだ。

これが、なんなのか、なんだったのか、いまだにわからない。

冷静に考えると、自分の中にある様々な“事前知識”および“経験”の複合体が、あまりにその表出物と複合体の具合がよすぎて、ツェッペリンや樂焼きや前田雨城氏に過敏(というか爆発的に)反応したのだろう。とは思う。

でも、その反応した元となる知識や経験がどのようなシステムで成り立っているのかを演繹的に調べる気には到底ならない。だって、糸口自体がほとんどわからないのだ。

前田雨城氏の反物、言ってみればただの色がついた無地の生地を見ながらなぜ涙してしまったのか、まったく見当がつかないし、
ツェッペリンの最終楽章のA面に針を落としてから裏返してB面を聴き終えるまでの40分間なぜずっと鳥肌が立ったままだったかは未だにわからない。

この、説明不可能(というか説明不要)の何モノかに関しては、特に真摯にモノづくりに関係する人はほぼすべての人が異口同音にその存在を明らかにしている。

もちろん、モノづくりにかかわっているわけではない人でも体感した経験の持ち主も大勢いらっしゃるだろう。

それを感じる僕たちの感受システムがあまりに複合的過ぎて解析の余地が全くないからなのか、
説明できないし物質化もされないエネルギーの束のようなものがその表出物に宿ってしまったからなのか、
その両方なのか、、、、、、

光はどのように波であり粒子なのかが全く説明できないのと同じように、
この、「何モノかをガッツーーーーンと感受する」という現象は、その何モノかがどのようなものか全く説明できないし、それを感受するシステムがどのようなものかが複雑系過ぎて解析の仕様がない。何度も同じこと言ってるけど。

その2の途中でわからないままにほぉっておいてしまった話、
表出物の主体にどれだけ付帯物や付帯環境がついたら『美しいもの』になるのか、という問い、
これは、やはりわからない。ただ、もうこれは完全なる僕の想像イメージだが、本来の表出物主体にはやはり最初からなんらかのポテンシャルパワーがそなわっているのではないか、と思うのだ。

ジョシュア・ベルは初めてバイオリンを弾いたときから、その音にはなんらかのエネルギーの束が塗り込められていた。
だが、それに観察者が気付くには『技術』という付帯物が少なすぎた。
ジョシュア・ベルが、素晴らしく聴衆に雷を落とすことのできる演奏者だ、と評価されるまで、彼は絶え間なく付帯物を纏っていったのだろう。

もちろん、ポテンシャルパワーを演奏に塗り込めるのはジョシュア本人だ。だから、彼の心持ちや体調によって、そのパワーの量は演奏のたびに変わるだろう。
むせぶほどパワフルな演奏の時もあれば、あまり塗り込められていない薄味の演奏の時もあるだろう。

でも、どちらも最高の『技術』と最高の楽器によって音楽は奏でられる。
その音楽は、スノッブな“鑑賞ゲーム”を行うには十分すぎるネタとなるだろう。

当たり前の話だが、“芸術”といわれる(表出物主体に付帯物や付帯環境が合わさった)表出物全体というものは、雷を落とすポテンシャルパワーの含有量にものすごくムラがあるのだ。

また、これは観察者側の感受システムにも同じことが言えそうだ。

或る人間Aが、鑑賞してガッツーーーーンとなった表出物を、他の人Bが同じく観察して同じくガッツーーーーーンになるかというと、そうでもない。

さらに、別の人Cが、Aに雷が落ちたのを見て自分も鑑賞したけど全然ガッツ―――ンとならず、Aがガッツ――ンとなっているのを、「あれは雷が落ちたふりをしてるんじゃないか」などといぶかしがるかもしれないし、

さらにさらに別のDがそのCを見て自分も鑑賞してみてガッツ―――ンとなり、ガッツ―――ンとならなかったBやCを不感症なやつだとさげすむかもしれない。

なにやらやっかいなものですな。。。。

これは、どう考えても受け手の複雑な感受システムの構造差によるものとしか思えない。同じものを体験しているにもかかわらず受け方が違うのだから。

また、ほとんど自分にしか雷が落ちなかった場合もあれば、かなり多くの人も同じく雷が落ちた場合まで、いろいろな度合いがあるようだ。

感受システムの構造というのは、多くの人間に普遍的に存在する根幹の層があるのかもしれない。
たとえば音楽で言えば皆が同じく学習する幼少時のNHKのみんなのうたや、小学校や中学校にある音楽の教科書の内容から構築されているのかもしれない。

感受システムのそういう根源的な部分から共鳴を受けるような表出物が、いわゆる「古典作品」「永遠の名作」言われるものなのかもしれない。
その表出物が完成されてからずっと、多くの人間の感受システムに雷を落とし続けてきたもの、すなわち感受システムの根源に働きかけるもの、である。

こんな感じで、ガッツーーーーンと雷が落ちるか否かというのは、その表出物のもつポテンシャルパワーと、それを受け取る人間の感受システムの一対一対応的な有機的反応で起こる。そう思う。
「そんなことわかってるよ」と言われそうだが。。。。

そして、当たり前の話だが、表出物に感応するには、感受システムの準備が整っていないとだめだ。

ジョシュア・ベルが今回の演奏でどのくらいポテンシャルパワーを発していたか僕には知る由もないが、残念ながらそこはコンサートホールではなかった。
きわめて多くの人間は、“芸術”に感応する感受システムをオープン状態にしていなかったのだ。

ただ、その中でも、音楽という芸術に対して敏感な“知識”と“経験”を持ち合わせていて敏感なためにいつも感受システムの表に触手を伸ばし続けているような人、元バイオリニストやギター弾きは鋭敏に悟ったのだろう。

彼らがそのまま聞き惚れて、そして、彼らに雷が落ちたのかどうかはわからない。そこまで詳細にはWP紙の記事は彼らの感動度合いを説明していない。
でも、雷が落ちた可能性は十分にあるだろう。
どんなポテンシャルパワーも、まずは感受システムがその存在に気付くことが大前提だから。
気付いた彼らは、もう、ジョシュア・ベルにやられてしまったのかもしれない。

靴磨きの女性はWP紙を信じるなら音楽には全く無頓着だ。
それでも感応したのは、のんびり駅の構内で彼の演奏を聴いていたからこそ、乏しいかもしれないが小さいころの義務教育などで培った彼女の音楽感受システムはすぐに働くことができたのだろう。
そして、彼の演奏するポテンシャルパワーに少しやられたのかもしれない。

Standby Recordのライターさん(そしてそれを訳してくれた日本のfacebooker)が言っていた『美しいもの』とは、この、知的な鑑賞ゲームによって評価される状態と、雷が落ちる状態とのどちらを言っているのかがわからない。
もしかしたらどっちもなのかも。

もし雷が落ちるようなことが朝の通勤途中で無料で体験できるのだとしたら、こんなにラッキーなことはないだろう。
でも、それには、まず自分の感受システムが働いてくれないことには仕方がない。
この感受システムは複雑すぎるので、一朝一夕で取り繕えるものでもない。

ポテンシャルパワーに雷を落とされる現象は、一期一会だ。そう思う。
或る時たまたまものすごいポテンシャルパワーを持つ表出物に合う。その時、自分の感受システムもたまたまいい感じにオープンになってくれていて、しかも構造がそのポテンシャルパワーとシンクロするにばっちりな形になっていた。
そういう時、雷がおちてガッツーーーーン、となる。

ラッキーだ。とてもラッキー。そう、ラッキーなんです。努力では何ともならないんですよ、たぶん。

だから、この記事を読んであぁ毎日いい音楽ころがってないかなぁ、とうろうろする必要はない、と思う。そんなに違うことに鋭敏になっていたら心無い運転をしている自動車に轢かれてしまうかもしれないです・・・。

『美しいもの』が“鑑賞ゲーム”の対象であることを言っているのであれば、これはやはり朝の通勤ラッシュではなかなかむずかしいのだろう。
その3で言っていたところの、単なる「官公庁にはどのくらいの音楽フリークがいるのでしょうか?」実験、である。
そして、その結果が、1000人中6人でした! というものだ。
少ないなぁ。。。

誰かも言ってたけど、これ、夜の駅でやってたら全然違っただろうね。朝の通勤ラッシュに比べると、感受システムは格段にオープンになってる人が多いだろうから。
でも、そうなったらものすごい人だかりが来て収集つかなかったかもしれない。
WP紙の記事で言ってたけど、WP紙がこの企画をするにあたって、一番怖かったのは多くの人間がジョシュアベルだと気付いて人だかりの山になってもう実験どころじゃなくなるようになってしまたら・・・、だそうです。
だから朝にやったんだろうね。
で、残念ながら心配は杞憂に終わったわけですな・・。

この40分強のジョシュアベルの演奏は、サイト上の音源で聴くことができる。こちらです。

全部聴いてみた。すごいよ。最初はバッハのシャコンヌから入るんだけど、むちゃくちゃかっこいい。
これを聴いただけでは、僕はガッツ―――ンとはならなかったけど。

ここに僕が歩いてて、たまたまいつもより一本早い電車に乗れてたら、いつもの電車の時間までたぶん立ち止まってたんじゃないかと思うんだけどなぁ(かっこつけすぎか?)。それでも電車一本分だが。
さらにでも、逆に寝坊して電車一本遅れてたら一瞥を交わしたかどうかも分からんな(笑)。

個人的には、二曲目のアヴェマリアが雑踏の雰囲気と相まってすごいいい感じ。好きだ。

この人初めて聞いたんだけど、結構好きかも。CD注文してしまった。
映画音楽とかで有名になったし、なんか、かるぅい感じのプレイヤーなんだろうなと思ってんだけど、
意外とケレン味たっぷりで、情感たっぷりに弾いてる自分をマリオネットにしてる感じが好きかも。
まぁこういう場で弾いてるからかもしれないけど。

あぁすんません、もう完全にスノッブなゲーム状態です。

「芸術ってのは解説が始まった時点で、もう嘘だ」
みたいなこと、どっかできいたことあるんだけど、そういうことだね。
解説されてる時点で“ポテンシャルパワーを秘めた何モノか”じゃない、ってことだもんね。

・・・と言いながらまたゲームですが、面白いのは、数曲演奏したのち、最後にもう一回シャコンヌ弾いたこと。
最初っから曲順と曲目が決まってて、シャコンヌで始まってシャコンヌで終わる予定だったのなら関係ないが、
もし彼がその場でもう一回、超絶技巧が必要とされるシャコンヌを弾きたかったんだとしたら、これ、「もっとオレを見てくれよ!」とおもったからなのかな、と。
そして、それを弾き終わって、演奏終了。記事でのインタビューでも言ってた通り、不思議な感覚でこの場を後にしたんだろうな・・・。

・・・・と、長々と書きましたが、結局なんかみなさんが普通に思ってることをだらだらと書いただけ、になってしまっているような気がする。
でも、文章にすると整理がつくんだよね。これ、自分のための備忘録のようなものになりそうです。
おかげで、いつもいい加減に不正確に言ってたことが、少しだけ精度高く記録できたような気がします。

まぁ、実のところはほんとよくわかんないんだけどね。

まぁ、好きな時に好きなもの観て聴いて食べて好きなこと言ってたらいいんじゃない?

と、思う次第でございます。

ここまで長々だべっておいてそれかよ、ってな感じですが・・。

読んでくださった皆様、お付き合いありがとうございました<(_ _)>。

・・・・・・・・おわり

手染メ屋
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