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ロックで世界は変わるのか? ~その2

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こんばんわです。
昨晩(っていうか今朝まで)書いてた「ロックで世界は変わるのか ~その1」、さっき読みかえして、だいぶ短絡的だなぁ、と。特に最後の方だいぶ荒っぽいなぁと。。でも、この程度の知識でしか話ができないレベルなんですすんません。
そもそも、だいぶ偏ったジャンルしか聴いてなくてしかもその好きなジャンルでさえもネタが少ない俺が、 偉大なる20世紀のポピュラー音楽史なんて語れるわけないのに、ほんと恥ずかしいことやってるな、と。こういうのはちゃんとピーターバラカンさんとかにやってもらうべきことだよな。だいぶ恥ずかしいです。

ただ、つたない知識と無い知恵なりにずっと音楽聴いてきてて、好きな芸術形態のはずの音楽(正確に言うとその音楽にまつわる周りの状況)に時々嫌な気分になることがあるわけです。今回はそれが何なのかをまとめる作業なので、恥ずかしいなりに続けます。

 

その1の最後に出てきたボブディラン。“時代の代弁者”なんていう冠がつく彼は反体制音楽の先駆者みたいないい方されるのをときどき耳にする。昨日も言ったようにディランはウッディ―ガスリーやピートシーガーの影響を受けてたんだけど、社会の風刺を歌う曲、いわゆる“protest song”を彼らが好んで作ってたのもあってディランも自然とそうなったらしい。でも、彼のファーストアルバム「ボブディラン」では実は自分の曲は2曲だけで、のちにアニマルズで更に有名になる朝日の当たる家も含めてほとんどがトラディッショナルソングやブルースソングだったんだけど、それが売れなくて方向転換したって話もあるみたい。このファースト、個人的には結構好き。ジョンハモンドとかデイヴヴァンロンクよりも青くて荒っぽくてでもハープかっこよくて。
俺はディランに真髄してるわけじゃないので反体制ディラン好きの人たちには申し訳ないけど、自分が聴いてる限り、ディランは時代の代弁者とか反体制のミュージシャンなんて思えない。正直言って、歌詞の意味よくわかんない(だってあんな歌い方されたらネイティヴじゃない俺にはホント何言ってるかわからん)。かっこいいから聴いてるだけだ。
確かに「風に吹かれて」はプロテストソングの代名詞みたいになってる。歌詞の内容も武器や政治家について言及してるとこがあるけど、彼自身がコメントしてる通り歌の中に答えはない。風に吹かれてるだけなんだから。いろいろもやもやしてることを歌ってるだけだよな。で、それを聴いてたオーディエンスの中に、同じもやもやを持ってて答えが出ずに共感して更にカッケー!って思うやつがでてくる。それはいい。俺もそんな感じ。
だけど、ディランが風の中に答えをゆだねてるだけなのに勝手に答えを妄想して「武器を作るやつがいけないんだ!」「為政者が自分の都合のいい政治ばっかりやってるから世の中が悪いんだ!」なんて言い出して、「風に吹かれて」を反体制プロテストソングに持ち上げる奴が出てくるんだよな。
いや、でもここまでならいいんだよ、まだ。解釈なんて人それぞれだから。で、それで気が高揚して元気が出て楽しくなるんだったらいいよ。そこまでだったら。だけど、面倒なことに(そう本当に面倒なことだ)、それがエスカレートして「ディランは時代の代弁者だ!」とか「彼の歌が今の世の中を救ってくれるんだ!」とか言い出すと、これは空気がおかしなことになる。こういうやつが出てくるのが、ロック=反体制 の始まりだと思ってる。
彼は世の中を救ってもないし、時代を代弁するために音楽をやってるんじゃない。順番が違う。音楽をやりたくて、歌詞を作るために身の回りのネタを拾うだけだ。その拾い方をウッディ―ガスリーやピートシーガーに教わって(というか好きだったので勝手に真似して)時代の風刺が多くなっただけだよ。
ディランは自分が思ってるよりもずっと自分が反体制フォークミュージシャン的レッテルを貼られてることが嫌で、4枚目のアルバムにはそういうプロテストソングっぽくみられる唄が入ってない。それが反体制フォークファンから反感買って、更にそのあたりからビートルズのメンツと仲良くなって彼らの影響で次の5枚目からアコギをエレキギターに持ち変えたこともそれまでのファンには裏切り行為として非難されるけど、結局はその鞍替えが評価を得て新しいフォークロックの礎になるんだよね。

1966年のロイヤルアルバートホールでのライブで、ディランはエレキに持ち替えてザバンドをバックに Like a Rolling Stone を歌おうとするんだけど、プロテストソングを歌わずフォークも捨てたディランを裏切り者扱いする観客たちから罵声を浴びられるんだよね。”Judas!”(裏切り者!)って。で、それにディランは”I don’t believe you” “You’re a liar!” って言い返して “Play it fuckin’ loud!”(ばかでかい音でやってやろうぜ!)ってバックのザバンドのメンバーにひと声かけて曲はじめるんだわ。すげーかっこいいよ。探したらちょうどそこの部分だけyoutubeであったので貼り付けときます。

 

 

高田渡さん、好きです。話変わるけど。って言ってもそんなにたくさんは聴いてないけどね。アメリカのトラディッショナルメロディに乗せた彼の四コマ漫画的な日常描写の唄がとても好きです。
ご存じの通り60~70年代フォークの立役者さんだけど、も少しちゃんとプロテストソング歌ってた岡林信康さんなんかに比べて、もっと苦笑いしながら身につまされる感じ。値上げの唄とか自衛隊の唄とか自転車の唄とか電車で席譲る女子高生の唄とか。
結構ぐだぐだな値上げの唄がありました。いいわぁ。

高田渡さんの唄もプロテストソングにはいるんだろうし実際自衛隊に入ろうとか放送禁止になってる唄多いし、実際行動も少々破天荒だったみたい(そのあたりは彼の晩年ドキュメンタリ映画で観れるらしい)。でもそれで実際の社会が動いたとは思わないし、彼も社会を動かしてるなんて思ってないと思う。ネタとして社会の気になるところをつまんで唄にするんだよねたぶん。その真剣なふざけ具合とこの人の妙な飄々とした感じが、ミュージシャンとしてほんとにいいなと思うんです。いわゆる社会派フォークミュージシャンだけど、でも、自分が社会をかえてやるなんて思ってやってるわけじゃないんだと俺は思ってる。

 

自分でも詞を作らないといけない時があるので素人ながら思うんだけど、唄を作るときはやっぱりどうしても身の回りからネタを探すんだよね。「あ、これ面白いから覚えとこぉっと」みたいな感じでメモったりして。そのネタとしてたまたま社会の風刺をつまむのがうまい人が、反体制ミュージシャンになるんだと思ってる。そして、だれが反体制ミュージシャンに仕上げるかというと、ある特殊なリスナーだ。自分が反体制的な意見を持っていてそれを多くの人に知らしめたいと思っていて、その意見に近い事象をネタとして唄の主題にしてるミュージシャンを見つけて祀り上げる。ロック=反体制 って、60年代にそうやって生まれたんじゃないかと思ってる。
ボブディランも岡林信康もそれに悩んでストレートなプロテストソングを歌うのを辞めたんだよ。二人とも才能と環境とおそらく運にも恵まれてその後もつぶれずに音楽できたけど、たぶん、これでつぶれたミュージシャンもいたんじゃないかと思うんだわ。すんませんいい例が思いつきませんが。

さっきも言ったけど、音楽の解釈は人それぞれだからそれはいい。自分の考えや思想のよき理解者として特定のミュージシャンや曲を奉るのはその人の自由だ。自分の中だけでならね。だけど、自分の主義主張を広げるために曲やミュージシャンを利用したり、その解釈を強要したりするのは本当にやめてほしい、と思うんだわ。ロックみたいな言葉足らずなもの使わずに、ちゃんと母国語でわかるように詳しく説明してよ。と、思う。

 

その1のなんちゃって音楽史で話してた中で話題にしたリズムアンドブルース、そしてソウル。このあたりの黒人音楽は60年代の黒人公民権運動と深くかかわってる。モータウンレコードやそのミュージシャンたちがキング牧師の活動に一肌脱いでたり、マルコムXとサムクックが深い中だったり。ソウルが公民権運動を陰に日向に支えていたのは事実だよね。だけどこの 「黒人公民権運動=ブラックソウル」と「反体制=ロック」 とはちょっと環境が違うんだよね。
あの時代、公民権運動を起こす黒人は実質的には選挙権がなかった。公の場で自分たちの政治的意思を反映させる機会が皆無だったんだよね。その機会を得るには白人の良心に訴えて法律自体を変えるしかないわけで、あの時代白人層に最も効果的に意思を伝えられそうだったのが、黒人文化の中で最も白人層に浸透してた黒人音楽だったんだよ。だからそれを利用したわけです。そして、音楽家側も喜んでそのお手伝いをしたわけです。黒人職業音楽家だって、唄や楽器がうまいってので名声はあったし金も稼げたけどやはり白人と同じ人間としては扱われていないことに不満を持ち続けていたわけで、なんとかしたいな、と考え続けてたんだよね。
白人はロックみたいな言葉数の少ない少々不自由なアウトプットに気持ちを載せなくても自分の言葉で言える環境だったんだよ。ロックの歌詞に乗せなくても、まっとうな活動と言動で社会に訴える場がいくらでもあったわけです。でも、黒人はそれができなかった。その場と権利が黒人にはなかった。だから、白人に一番届きやすい黒人音楽を手段として選んだ。ここが、大きな違い。
俺たち日本人には全くこの感覚は分からないんだと思うんだけど、この“抑圧感”ってものすごいんだろうね。。これは本当にすごいことなんだろうなと勝手に想像してます。白人ロックとブラックソウルの底力の違いって、こういうところなんじゃないかと思ってる。
でもね、これも社会を変えるためにソウルが作られたんじゃないよね。やっぱり最初にR&Bとソウルがあって、その利用価値が高くて公民権運動の重要なツールに選ばれた、ということだと思うんです。そう、最初に音楽ありき、です。

 

70年代半ばに生まれたパンク。若いころはそのイメージからあんまり好きじゃなかったのでその1でも言った通りちゃんと聴かなかったジャンルの一つなんだけど、不得意ながらその話してみようかな、と。
ご存じの通りマルコムマクラーレンとヴィヴィアンウェストウッドのカップルのブティック「SEX」に出入りしてた不良少年と店員でバンドを組ませて、マルコムがプロデュースしたのがセックスピストルズ。そこからロンドンパンクが始まるわけですね。もともとマルコムはあまのじゃくな性格だったらしいです。なんか英語のwikiみたら彼はおばあちゃん子でいつも “To be bad is good… to be good is simply boring”(悪い子でいるのがいいんだよ。いい子でいるなんてつまんないだけだよ)っていわれてたらしい。すげーおばあちゃんだな。ロンドンパンクの原点はマルコムのおばあちゃんだったんだなきっと。
ティーンエイジャーの頃に少しの期間King Mobって無政府団体にはいってたみたいだけど、これ政治団体っていうよりは不条理主義的過激派組織で、19世紀末の有名な殺人鬼切り裂きジャックや当時の全英を震撼させた11歳の連続殺人鬼メアリーベルを崇拝したりアンディ―ウォーホル銃撃事件を称賛したりしてるただの物騒団だったみたい。そういう反社会的なことが好きだったんだろうね。
思想や政治的主張があってセックスピストルズを作り上げたんじゃなくて、ただ、「違うことをする」こと自体が目的で始めたんだよね。いや、これ自体はすごい文化の作り方だと思います。純然たるアンチテーゼ行動だけで文化が成り立つ、って価値観を作ったわけだから。すごいよ。
そのアンチテーゼ表現のために服、言動、そして音楽をツールとして採用してそれがトータルにコーディネイトされてロンドンパンクが完成したんだよね。
プロテストソングや公民権運動のためのソウルとはちょっと違ってて、パンク的表現のためにツールとして作り上げられた音楽ジャンルという意味ではパンクロックは最初からその出自が明確に決められてたんだろうけど、でも、その、目指すべき主義や主張や言いたいことがあるわけじゃないよね。だってパンク自体がどこかを目指してるわけじゃないから。ぶっ壊すことが目的だから。
で、もう、この先はそれこそ好みの問題だけど、俺はそこに美しさとかカッコよさを感じることがあんまり無い。これは若いころから。つまんねー奴だなと思われる方、はい、そうです。つまんねーやつなんだよ俺は(笑)。だからといって壊れることが目的のやつを否定してるわけじゃないです。それは観てて面白いしたまにそうしてるやつの中にかっこいいなと思う瞬間はあります。ただ、自分がそうなりたいとか自分がそれをやりたいとか思わないだけです

もう一回いうけど、パンクを否定してるわけじゃ全然ないよ。若いころは食わず嫌いなところがあったけど歳とるにつれいろいろ聴くようになって例えばクラッシュってパンクとか関係なく普通にロックとしてすげーかっこいいじゃんとかアンチテーゼとオルタナティヴの境目のきわきわあたりに面白さってあんじゃねのとか(よくわからんが)。甲本ヒロトさんとかすごいカワイかっこいいと思うし。
ただ、 ぶっ壊す=ロック=かっこいい の中にロックをいれてほしくないな、と思ってるだけです。ぶっ壊したロックを人工的に作ったのがパンクロックなわけで、その目的はただアンチテーゼを表現するためでしょ。さっきの式にロックを入れられると、ロックは全部ぶっ壊されてないといけないことになっちゃうじゃん。ぶっ壊してないロックでもかっこいいものいくらでもあるし。

・・・と、パンクを通ってないアタシは思ってます。パンクの方たち、間違ってたらごめんだけど。

 

今日もこんな時間になってしまった・・。
たぶんあと一回で終わると思います。もしよかったらあと一回だけ付き合ってくれると嬉しいです。

 

→ その3最終回はこちら

 

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